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空を眺めて高いこと・・・清輝楼日記

野口雨情 直筆色紙
館内展示色紙「野口雨情」作

 日本旅館の使命は日本文化を継承し、また発信基地であること・・・・こんな言葉に出会いました。
 ならば宮津・天橋立にある旅館は当地の伝統・文化をしっかりと継承し、後世に伝えていかねば、という思いをいたしております。
 主人が日々考えていることを皆様と共有できればと思い、綴って参ります。是非ご覧下さい。

 
<< ホントに知ってる?日本三景 >>
一般的な観光案内ならガイドブックを見た方が早いので、ここでは「天橋立」について掘り下げた歴史の話などをご紹介しましょう。
「あまのはしだて」と呼びます、念のため。もちろん日本三景の名勝ですが、最近では日本三景もはっきりどこを指すのか知らない方もあります。宮城県 陸前 松島、広島県 安芸の宮島、そして京都府 丹後 天橋立です。では日本三景っていつ頃、誰が決めたの?って言うとこれは地元の人でもなかなか知りません。まず「日本三景」という発想が最初に見られるのは、林 羅山(はやし らざん)の子、林 春斎(はやし しゅんさい)が寛永二十年(1643)に、松島を天橋立・厳島とともに「三処奇観たり」と述べた『日本国事跡考』にあると言われています。その後元禄二年(1689)に、福岡藩の儒学者 貝原益軒(かいばら えっけん:養生訓などで有名)が天橋立を旅行した記録『己巳紀行』(きしきこう)の中には「・・・そして府中から成相寺へ登ることになり、その坂の途中で、此坂中より天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶ス、日本の三景の一とするも宜也、・・・」とあり、ここで初めて「日本三景」ということばが登場するのです。ここで興味深いのは、天橋立を日本の三景の一とすることは世に広くいわれていることであって、それをあらためて実感したという文脈になっていることです。このころから旅行案内記が手軽に出版されるようになり、また浮世絵などで全国各地の紹介がなされることにより、日本三景が世に広く人々にみとめられることになります。
(参考文献:宮津市史 通史編下巻)




 
<< なんでこうなったの?>>
続いて「天橋立」、笑い話のようなことですがお客様からのお問い合わせで「天橋立には何時頃に行くと対岸まで渡れるのでしょう?」というのがあります。満潮時には海中に沈み、干潮時には姿をあらわす他国の風景と勘違いされるのでしょう。たしかに不思議な姿です。
宮津市史通史編上巻には以下のように示されています。

@約1.5万年前以降の気候温暖化により、海面は100年に1メートルという猛烈なスピードで上昇してきた。
A約8000年前には現海面よりマイナス20メートルで現在の天橋立と同じ位置に達した。このため北から南へ水中の砂州が形成され始めた。
B現在の砂州は約6000年前の最高水準後の低下期である約5000年前頃陸上にあらわれたであろう。当時の砂州は文珠との間に広い水路(古切戸)を隔ており、今より短いものであった。
C南砂州の形成は江戸後期以降である。これは砂の供給源である丹後半島部で森林伐採や火入れが活発になり、海へ流入する土砂量が増加したことが大きな原因と考えられる。以下略


野田川から流れ出る砂粒と外海から流れ来る砂粒とがぶつかり合い、どんどん現在のような姿になっていったのでしょう。分かりやすい例でいうと雪舟画の国宝天橋立図がありますがこれはおおよそ500年前、たしかに現在より短い天橋立が描かれています。時は300年を下り、清輝楼にある200年前の天橋立図を見ても確かに現在よりも短いのです。百聞は一見にしかずご自身の目で確かめて見て下さい。




 
<< 天の浮橋(あめのうきはし) >>
ここまできたのでもう少し「天橋立」を探求しましょう。その由緒には諸説ありますが、古来から多くの書物がとりあげていることは『天橋立は”天の浮橋”である』ということです。これは大変重要なことです。では「天の浮橋」と何なのか?それは古事記にまでさかのぼる必要があります。天地初めてひらけし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神。で始まる日本最古の歴史書には、二柱の神が日本の国土をおつくりになるくだりでこのように書かれています。

ここに天(あま)つ神諸(もろもろ)の命(みこと)もちて、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、二柱の神に、「この漂へる国を修め埋り(つくり)固め成せ。」と詔りて(のりて)、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依(ことよ)さしたまひき。故(かれ)、二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろしてかきたまへば、しほこをろこをろにかき鳴して(海水をコロコロとかき鳴らして)引き上げたまふ時、その矛の末(さき)より垂り(しただり)落つるしほ、累なり(かさなり)積もりて島と成りき。これオノゴロ島なり。

要するに、有名なくにつくりの場面で二柱の神様がたっているのが「天の浮橋」なのです。




 
<< 日本民族の発祥地?>>
天橋立の由緒を解説した金久与市氏の「古代海部氏の系図」には以下のようにあります。

ここで『天ノ橋立』については「丹後国風土記逸文」が次のように記してある。
“与謝の郡。郡役所の東北隅の方向に速石の里がある。この里の海に長くて大きな岬がある。前の方の突出部を天の椅立(はしだて)と名づけ、後の方を久志の浜と名づける。そういうわけは、国をお生みになった大神の伊射奈芸(いざなぎ)命が天に通おうとして梯子を造り立てたもうた。それ故に天の椅立といった。ところが大神がお寝みになっている間に倒れ伏した。そこで久志備(くしび・神異)であられると不思議にお思いになった。それ故、久志備の浜といった。中ごろから久志というようになった(以下略す)”
これが『天ノ橋立』の由来である。神話でいう天神七代の最後の神イザナギノミコトが地神の最初のアマテラスを生まれると天へかよう梯子をつくられたということで、これがイザナギノミコトが、やすんでいられる時に倒れたので、天に通うことができなくなったという話である。日本海にはかかる“神話が”遺っている。この“神話”が事実のように歴史的遺物が現在もある。それは真名ヶ原にある巨石で、二つの大きな岩石がそれである。この付近から石斧や滑製品が出土しており、この大きな巨石を“子種石”とか“鶺鴒(せきれい)石”とか呼んでいて、海部宮司家ではアマテラス出生の地と伝えている。この大きな巨石は考古学では、“磐座(いわくら)”と呼んでいるもので、海部氏は一つを真名井神社の祭神のアマテルトヨウケ(天御中主神のこと)の祭場として祀り他の一つをアマテラスの祭場にしている。戦前より“高天原”を西方にあるものと信じていたが、これは全くの誤りで、丹波(現在の丹後)が本来の日本民族の発祥地ではないだろうか。





<< 丹後王国 >>
ここ何回かで「天橋立」について深く掘り下げましたが、微細にいたる史実の検証は学会に譲るとして、それだけ古い歴史があるということをお伝えしたかったのです。すでにご紹介したように古事記や古代史、神話にかかわりがある土地柄ということに重要な手がかりがあります。最近の研究では大和朝廷成立に大きな影響力をおよぼした王国がこの丹後にあったのではないかと言われています。小欄でその詳細を述べるには限界がありますのでこのへんにしておきます。

以前から「小さなちいさな美術館」などでご紹介しておりますが、私たちの理念として「日本旅館の使命は日本文化の継承者であり、発信基地であることです。宮津にある日本旅館は宮津の歴史文化の継承者であり、発信基地でありたい」というのがあります。地元にいる我々は地元の歴史をしっかりと学んでいきたいと思っています。

少しかたくなりましたね。次回は上手な「またのぞき」をご紹介しましょう。